意外?野球が大好きな俳人正岡子規!小3の教科書にも載っている俳句に親しもう
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問題:次のヒントに当てはまる人物は誰でしょう?・・・ヒント①夏目漱石の親友②野球が大好き③英語は苦手④東京大学を中退⑤俳句王国・愛媛県松山市出身。・・・答え:正岡子規です。現在では、正岡子規を始めとする有名な俳句は小学3年生の国語の教科書にも載っています。子どもにとっては新鮮で、大人にとっては懐かしい。そんな子規にまつわる俳句の世界を、一緒に覗いてみませんか?
この記事の目次
正岡子規の生い立ち
画像引用:坂の上の雲ミュージアム
正岡子規は慶応3年に、松山藩士の子どもとして生まれました。立身出世を目指した子規は県立松山中学を中退し、東京大学予備門(後の第一高等学校)に入学。勉学に励みつつ、俳句や野球といった新しいスポーツにも触れるようになります。子規は幼名が升(のぼる)であったことから、俳号を正岡野球(のぼる)と名乗っていました。のぼると野(の)・球(ボール)をかけたんですね。
(※俳号とは、俳句を作る時に使う雅号のことで、作家で言うとペンネームのようなものです。)
夏目漱石とは同じ学校だったので、文学を通じて漱石と友人関係を築いていきます。
しかし、子規は当時不治の病といわれた結核にかかってしまいます。
「卯の花の ちるまで鳴くか 子規」
(うのはなの ちるまでなくか ほととぎす)
血を吐くまで鳴き続けるという子規(ほととぎす)になぞらえて、明治22年、喀血した22歳の時に自分の俳号を「子規(しき)」と名乗るようになりました。
明治25年の試験に落第した子規は東京大学を退学し、新聞社へ入社します。明治27年には、病気にも関わらず日清戦争の従軍記者として中国へ行きます。明治28年、戦争は日本が勝利しました。その後子規は松山で、漱石の下宿先「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」に居候し療養生活を送ります。この頃、漱石は松山の中学で英語を教えていました。
この時期の子規の句です。
「桔梗いけて しばらく仮の 書斎哉」
(ききょういけて しばらくかりの しょさいかな)
同じく、漱石の句もあります。
「愚陀仏は 主人の名なり 冬篭」
(ぐだぶつは しゅじんのななり ふゆごもり)
文学において互いを高め合う姿が目に浮かぶようですね。
その後、いくらか回復した子規は東京へ帰ります。
「十一人 一人となりて 秋の暮れ」
(じゅういちにん ひとりとなりて あきのくれ)
友人ら約10人が送別会を開き、子規の船出を見送る予定でしたが、船の出港が遅れたために友人らが先に最終列車で帰ってしまった時の句です。子規はたくさんの俳句づくりの仲間に囲まれていたようですね。
この後に奈良の法隆寺にも立ち寄っています。
「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
(かきくへば かねがなるなり ほうりゅうじ)
小学3年生の国語教科書にも載っている有名な俳句です。ちなみに子規は果物が好きで、特に柿が大好きだったようです。
俳句雑誌の誕生
子規の唱える新しい俳句は愛媛から全国に広まり、明治30年、柳原極堂は子規の協力を得て、俳句雑誌「ほととぎす」が誕生します。その後、高浜虚子に編集が引き継がれ、名を「ホトトギス」に変えて東京で出版されるようになりました。この雑誌には漱石の「坊ちゃん」や「我輩は猫である」も発表されています。
子規は闘病生活を続けながら、俳句界での活躍を続けました。
34歳という若さで亡くなる
「足立たば 北インヂアのヒマラヤの エヴェレストなる 雪食はましを」
(あしたたば きたインヂアのヒマラヤの エヴェレストなる ゆきくはましを)
病床の子規が、足が立てば旅をしてエベレストの雪を食べたいなという短歌を詠んでいます。
しかし願いは叶わず、明治34年に、子規は34歳という若さで亡くなりました。
子規は生涯独身でした。約2万3600句という大変多くの句を残しています。
子規は苦しい闘病生活を送った末、短い生涯を終えましたが、その中で文学を強く愛し、多くの仲間に囲まれ、日本文学に多大な影響を与えた人物であることが分かりましたね。このような背景を知って俳句を詠むと、俳句に込められた子規の思いがぐっと理解できるようになりますね。
正岡子規と野球
子規は日本に野球が導入された頃の熱心な選手でもあり、病気で野球ができなくなる明治22年まで続けていました。
「まり投げて 見たき広場や 春の草」
(まりなげて みたきひろばや はるのくさ)
春の草が出てきて、ボールを投げてみたくなるような広場ではないか!と詠んでいます。本当に野球が好きだったのでしょうね。
「夏草や ベースボールの 人遠し」
(なくくさや ベースボールの ひととおし)
この句を詠んだ頃は病気により野球ができない体であったため、遠くで野球に興じている人を見て、元気に野球をしていた頃の自分を思い出していたのかもしれませんね。
正岡子規の関連施設について
画像引用:坂の上の雲ミュージアム
松山市にある、「坂の上の雲ミュージアム」は司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』がテーマのミュージアムです。小説の内容は、松山出身の正岡子規、秋山好古・真之兄弟の3人を主人公にした明治時代の物語。
小説のことや明治時代のこと、松山のことがよく分かる素敵なミュージアムに、足を運んでみてはいかがですか?地元の小学生は遠足で訪れることもあります。
「坂の上の雲ミュージアム」のホームページはこちらです。⇒http://www.sakanouenokumomuseum.jp/
画像引用:坂の上の雲ミュージアム
また、同じく松山市にある「子規記念博物館」のホームページはこちらです。⇒http://sikihaku.lesp.co.jp/index.html
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まとめ
今回は正岡子規について調べてみましたが、私は、俳句や短歌は決して難しいものではなく、むしろ大人から子どもまで親しむことができ、私達が継承していくべき素晴らしい日本文化であると感じられるようになりました。国語が好きなお子さんなら、自由研究のテーマにも良いと思います。
「五月雨は 人の涙と 思ふべし」
(さみだれは ひとのなみだと おもふべし)
これは子規が120年前に、明治三陸地震に寄せて詠んだ俳句です。熊本地震の一日も早い復興を、心よりお祈り申し上げます。